2022.01.28

端午の節句の由来について

端午の節句の由来について
 

端午の節句の起源について。甲冑や鎧兜に託した親の願い

男の子の健やかな成長を願う端午の節句。
これは日本に古くから伝わる文化です。その歴史についてご紹介をします。

 

中国から伝わった節句

端午の節句は、もともとは中国で生まれたものとされています。
古代中国では陰陽五行説にもとづいて、奇数を縁起の良い数字と考えていました。
中でも、暦のなかで奇数が重なる日を特別なものとしていました。これが節句で、3月3日(上巳)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(重陽)などとして今でも根付いています。



奈良時代には、豊穣を願う儀式として行われた

奈良時代ごろ、中国との交流が盛んになると、こうした風習も日本に伝わってきます。
なお、もともと端午とは端(はじめ)の午(うま)の意味で、月初めの午の日だったものが、やがて午(ご)と五(ご)の言葉の共通性から、5月5日定められたという伝承もあります。

端午の節句の日は、中国では魔除けの効果があるとされる菖蒲を浸したお酒を飲むなどしていました。
日本では、ちょうど田植えの時期にあたることから、巫女が菖蒲や蓬で葺いた小屋に立てこもり、田の神を招いて豊穣を祈念する儀式を行っていました。
もともとは、女性が主役のお祭りだったようです。

 



武家の時代を迎えて変わっていく端午の節句

こうした行事は、鎌倉時代になって変わっていきます。武士が台頭する時代になると、菖蒲が尚武(武を尊ぶこと)に通じるということで、流鏑馬(やぶさめ)といった勇ましい行事が行われるようになりました。
これが正式に式日となるのは江戸時代です。徳川幕府によって5月5日が正式に式日と定められ、大名や旗本が式服でお祝いを奉じるようになりました。
また一方で将軍家に男子が生まれると、幟(のぼり)などを飾って盛大にお祝いをする行事も行われるようになりました。
この風習は武家でも行われるようになり、やがて一般の庶民にも伝わっていきます。そうして、五月人形を飾る習慣が一般にも定着していきました。
なお、当時は幟旗(のぼりはた)は武家にしか許されていなかったため、庶民では鯉のぼりを飾る習慣が根付いたとされています。
 



甲冑や鎧兜に込められた意味

武家社会にあって男子は大切な跡取りでした。
武家では「家の存続」が最も大切なこととされ、男子の誕生は実におめでたいことでした。
また武家は誇り高く、江戸時代の平穏な時期にあっても武を尊ぶ気風を持っていました。鎧や甲冑、刀剣は武家の魂ともいえる大切なものであると同時に、戦の場にあって身を守ってくれるものでもあります。
こうした鎧兜を飾るのは、男児に武家らしくたくましく育ってほしいと願うとともに、怪我や病気といった厄災から大切な跡取りを守ってほしいという願いも込められています。
こうした習慣が現代に受け継がれ、男の子の健やかな成長を願って五月人形が飾れるようになっています。
 

 

ショッピングをより快適に

お客様に快適に、よりお得にお買い物をしていただけるよう
ポイントの仕組みとお支払い方法を見直しました。